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    カテゴリ:カルチャー > 歴史の出来事


    原爆って?いちから知るQ&A 8月6日に何が起きたか - 朝日新聞
    74年前の8月6日、世界で初めて原子爆弾(原爆)が広島に投下されました。原爆の被害とはどんなものだったのでしょうか。改めておさらいします。□Q:1945年8月6 ...
    (出典:朝日新聞)


    原子爆弾 (原爆からのリダイレクト)
    核兵器 > 核爆弾 > 原子爆弾 原子爆弾(げんしばくだん、英: atomic bomb)あるいは原爆(げんばく)は、ウランやプルトニウムなどの元素の原子核が起こす核分裂反応を使用した核爆弾で、初めて実用化された核兵器でもある。原子爆弾は、核爆発装置に含まれる。水素爆弾を含めて「原水爆」とも呼ばれる。
    35キロバイト (5,207 語) - 2019年3月24日 (日) 22:57



    (出典 www.asahicom.jp)


    新型兵器を投入したかっただけではないか?

    1 しじみ ★ :2019/08/08(木) 02:01:31.12

    (CNN) 74年前の8月6日、米国は広島に原爆を投下し、7万人以上を即死させた。3日後には2発目の原爆を長崎に投下、4万人以上を殺害した。

    今に至るまで、戦争で原爆を使った国は米国のみ。この核戦争は第2次世界大戦の終結につながり、世界史上最悪の章が終わった。

    広島に現場が投下された経緯を振り返る。

    (中略)

    ■米国が原爆を落とした理由

    マンハッタン計画に参加した米国の研究チームは、ナチス・ドイツが降伏した後の1945年7月に原爆実験を成功させていた。

    トルーマン大統領は、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が議長を務める諮問委員会に、日本に対して原爆を使うべきかどうか判断するよう指示していた。

    「当時の委員会は、攻撃を支持する見解でほぼ一致していた。スティムソン氏は断固として原爆を使用すべきという意見だった」。米ミズーリ州にあるトルーマン大統領図書館の専門家、サム・ラシェイ氏はそう指摘する。

    ハーバード大学で歴史学を教えるチャールズ・マイアー教授によると、トルーマン大統領が違う決断を下すことも可能だったが、「この兵器が使えるのに何故それ以上戦争を長引かせるのか、米国の一般国民を納得させることは難しかった」

    原爆は「多大な苦痛を免れられる魔法のような解決策になるかもしれないと見なされた」(マイアー氏)

    マイアー氏によると、この時の日本は無条件降伏には応じない構えで、原爆の威力を見せつけるだけでは不十分だとの懸念があった。ラシェイ氏によれば、科学者やジョン・マックロイ陸軍次官補は、無人地帯で原爆を爆発させ、それを見せつけることによって日本を降伏に追い込む作戦を支持していたという。

    だがトルーマン大統領や軍の顧問は、日本への侵攻に伴う犠牲を恐れていた。

    「硫黄島や沖縄の戦闘では、日本の空軍と海軍を壊滅させたにもかかわらず、米国と日本の犠牲者という意味であまりにも代償が大きかった」とラシェイ氏は語る。「米軍の作戦本部では、日本は最後の1人になるまで戦うだろうという確信が浸透していた」

    マイアー氏は言う。「自爆攻撃は現代では珍しくなくなった。だが米軍指導部は当時の日本のカミカゼ自爆攻撃で精神的に強い衝撃を受け、(日本は)国家総動員で祖国を守ろうとするだろうと判断した」「米軍は、原爆なしでこの戦争に勝てると断言することを躊躇(ちゅうちょ)した」

    歴史学者の間では、ソ連が参戦する可能性があったことも、戦争の早期終結を図る目的で原爆投下の決断を促す一因になったという説もある。

    ■結果

    原爆の爆発によって少なくとも7万人が殺害され、さらに7万人が被爆のために死亡した。「がんなどの長期的影響のため、5年間で合計20万人、あるいはそれ以上の死者が出た可能性がある」。エネルギー省はマンハッタン計画に関するサイトの中でそう記している。


    ■批判的見解

    あまりにも悲惨な結果を招いた原爆投下に対しては、批判的な意見も多い。

    1963年、ドワイト・アイゼンハワー元大統領は回顧録の中で原爆の使用を批判し、日本に対して降伏を強いる必要はなかったと指摘した。

    マイアー氏によれば、広島と長崎の原爆が「日本の天皇を動かして、分裂していた軍と降伏支持派に介入させた」。ただし、天皇の地位を保証するといった条件次第では、日本にも戦争を終結させる意図はあったかもしれないとマイアー氏は言い添えた。

    https://www.cnn.co.jp/world/35141021.html
    ★1が立った日付2019/08/07(水) 21:14:04.09
    前スレ
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1565187716/


    【【あの夏、、、】米国が広島に原爆を落とした本当の理由とは?日本の空軍と海軍を壊滅、、、軍部は日本のカミカゼ精神を恐れていた?】の続きを読む


    諸葛孔明(181年- 234年)は、三国時代の蜀漢の政治家、戦略家です。彼は天文、地理、軍事の学問に精通し、草廬(そうろ 孔明の出世前の住居)から出る前に、既に天下のことが分かっており、人間の知恵者の代... - 大紀元
    諸葛孔明(181年- 234年)は、三国時代の蜀漢の政治家、戦略家です。彼は天文、地理、軍事の学問に精通し、草廬(そうろ 孔明の出世前の住居)から出る前に、既に天下 ...
    (出典:大紀元)



    (出典 sangokushirs.com)


    諸葛孔明と陸遜?

    1 名無しさん@お腹いっぱい。 :2017/03/20(月) 22:49:13.76 ID:hugaVazr0.net

    魏は国力差を活かしきれてないのか、あるいはそこまで国力差が実は無かったのか


    【【中国四千年】何故、魏は大国でありながら呉と蜀に苦戦したのか?】の続きを読む


    中国と日本はどうやったら永久的な平和を実現することができるのだろうか - ニフティニュース
    中国メディア・今日頭条は22日、「中国と日本はどうやったら永久的な平和を実現することができるのだろうか」とする記事を掲載した。 記事は、日本と中国が隣国どうしで ...
    (出典:ニフティニュース)



    (出典 livedoor.blogimg.jp)


    元か?

    1 風吹けば名無し :2019/06/28(金) 01:36:55.54 ID:tSHd1WGg0.net

    宋だよ(結論)


    【【中国四千年】夏・商・周・秦・楚・漢・蜀・晋・随・唐・宋・元・明・清、中華史上最も優れた王朝は?】の続きを読む


    岡田准一が石田三成に扮する! 『関ヶ原』地上波初放送 - シネマカフェ
    岡田准一と役所広司が、石田三成と徳川家康をそれぞれ演じ、国民的ベストセラーを完全映画化した映画『関ヶ原』が、6月2日(日)に地上波初放送されることが決定した。
    (出典:シネマカフェ)


    石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
    68キロバイト (11,543 語) - 2019年5月5日 (日) 08:36



    (出典 asp.hotel-story.ne.jp)


    ほう。歴史を学び、活かす。べし。

    1 樽悶 ★ :2019/05/19(日) 17:01:28.01


    (出典 wedge.ismedia.jp)


    ※省略

     日本の太平洋戦争での敗戦の原因、特にインパール作戦のような兵站を軽視した戦いが実行された背景には、石田三成の存在があるのではないか……。

     こんなふうに書くと三成の子孫やファンに怒られるかもしれないが、この家人の出来事のあと、歴史上のイメージで真っ先に思い出したのがこの“太平洋戦争三成責任論”だった。

    ※省略

     三成について『戦国武将合戦辞典』(吉川弘文館)は、「武将ではあるが、その本領は軍事よりもむしろ吏務に長じ、五奉行中随一の実力者として政務の処理にあたり、内政面での功績が大きかった」としている。

     その一方で三成につきまとうイメージは戦下手。映画にもなった『のぼうの城』(和田竜、小学館)で三成は、水攻めなどを用いて忍城を攻めるも、結局落とすことができず、まさに戦闘では役に立たないような武将として描かれている。

     さらに三成のイメージを悪くしている一つに、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮侵略)での軋轢だ。奉行として渡海するなどした三成だったが、前線で戦うことはなく、その役目は食糧の輸送や戦闘状況をチェックしての秀吉への報告だった。報告の中には三成が処分を求めて実際に処罰されてしまった武将もいたものだから、加藤清正や黒田長政ら前線指揮官の武人派からは「ちくり」だと怒りを買ってしまう。

    ※省略

     ではなぜ、三成が太平洋戦争の敗戦に影響しているのかというと、またしても『戦国武将合戦辞典」の記述を拝借したい。戦闘能力が高かったとの記述はないが、「戦陣に臨んでも兵站関係や占領地の処理にその手腕を発揮した』とある。

    ■文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかった

     兵站とは、戦闘地帯の後方にあって食糧や軍需品の供給・補給などにあたる活動のことだ。いくら屈強な兵士を集めても腹が減っては力も出ない。どんなに武器の扱いに熟練していても、肝心の銃や戦闘機がなければ最新鋭のアメリカ軍には太刀打ちできない。

     三成はこうした兵站、つまりロジに長けていたというのだ。実際に、当時は前代未聞とされた20万以上もの軍勢を動員した九州攻めで兵站の役割をこなし、海を渡った文禄・慶長の役でも兵糧が滞ることはなかったとされる。

    ■「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島

     太平洋戦争では多くの日本軍兵士や軍属が太平洋の島々などで餓死したとされる。その事例として挙げられるのが、インパール作戦や、「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島での戦いだ。太平洋戦争全体の全餓死者数の公式記録はないものの、ある研究では200万人を超える軍人軍属の戦没者のうち、餓死・戦病死者は140万人にも上るという推察もあるぐらいだ。

     この三成と鋭く対立したことで知られる加藤清正は、日清戦争や日露戦争で清正を祀る神社や寺で戦勝祈願が行われるなど「軍神清正」としてあがめられることになったという。清正は朝鮮での虎退治や餓死寸前にまで追い込まれながら起死回生の勝利をあげた蔚山城の戦いなどの武功もあり、猛将と描かれることが多い(実際には熊本城築城や治水など行政手腕にも優れていたのだが……)。

     まさか、「清正のように食糧がなくても気力で勝てる」と昭和の日本軍が宣伝したことはないだろうが、現在でも陰湿なキャラ設定が多い文治派武将と比べて、清正のような猛将型武将は豪放磊落とどこかいいイメージで描かれることがしばしばだ。

     関ヶ原の戦いを契機として、戦争では勇ましさが好まれ、逆に三成のような兵站の重要性は省みられなくなったのではないだろうか。豊臣政権の五奉行のうち三成を含む三人が敗者となり、五奉行ではないが三成と同様に輸送や兵站で優れ、西軍の主力を構成した大谷吉継や小西行長も三成と運命を共にしたことも、兵站軽視思想に拍車をかけたのかもしれない。

     小西行長を描いた『鉄の首枷』(中公文庫)の中で遠藤周作は、「主計(会計)将校の孤独」という章をわざわざ設けて、「輜重(武器、兵糧などの軍需物資)部隊の指揮官であることが前線将校の侮蔑を受ける」と記している。

     これは、明治維新以降、軍隊が近代化してからも、陸軍士官学校、海軍兵学校など前線指揮官ことこそが花形であり、遠藤は「主計将校を幼年学校や陸士出将校たちがむしろ軽侮の眼で見たのは日本陸軍の伝統」として兵站を扱う人材は脇役であり続けたことと重ね合わせている。(続きはソース)

    2019年5月19日
    http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16169


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    <帝国主義と植民地>第1回~欧米列強、世界分割へ動く : Webコラム・解説 - 読売新聞
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    (出典:読売新聞)



    (出典 upload.wikimedia.org)


    植民地、、、占領はまた別か。。。

    1 みなみ ★ :2019/04/27(土) 21:58:58.16

    2019-04-24 22:12
    http://news.searchina.net/id/1678181?page=1

    欧州が大航海時代を迎えると、欧州各国は新しい大陸で植民地支配を行った。アジアにも欧州の手は伸び、たとえば、インドは英国によって植民地支配されたほか、インドネシアはオランダによって支配された。
    日本はアジアで植民地支配されなかった数少ない国の1つだ。

     中国メディアの今日頭条は23日、欧州の国々は大航海時代から19世紀にかけて世界各国で植民地化を進め、アジアも西洋列強の植民地とされた国は多かったと伝える一方、
    日本は最後まで国家主権を保ち続け、最終的には列強となった国であると主張し、日本はなぜ西洋列強の植民地にならなかったのかと問いかける記事を掲載した。

     記事は、18世紀から19世紀にかけての日本と中国では置かれた状況に大きな違いがあると指摘しつつも、日中両国に共通していたのは「鎖国」を行っていたことだと指摘。
    清王朝と同じく、徳川幕府も鎖国を行ってたが、当時の米国は英国が清王朝に行ったことと同じように、武力で日本を開国させようとしたと指摘。
    この時の日本は半植民地化される危険に直面していた時期と強調する一方、当時の欧米諸国はまだ「貿易」に主眼を置いていたのは日本にとって幸いだったと指摘した。

    以下ソースで読んで
    ★1 2019/04/27(土) 20:44:51.53
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1556365491/


    【【歴史】「植民地」になったことがない日本、まさに「天の時、地の利、人の和」】の続きを読む

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